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タスマニアの旅 − 10/Port Arther Historic Site

タスマニアから帰ってきてすっかり日が経ってしまいましたが、最終版です。タスマニアと言えばここをなくして語れないと思う場所です。そう!ポートアーサー史跡。ここはイギリス流刑地時代の史跡としてユネスコの世界遺産、オーストラリアの囚人遺跡群の1つに登録されています。戦争後に流刑地を無くしたイギリスはオーストラリア植民地に囚人を送りました。最初の頃の囚人達の罪状は小さな物や家畜の窃盗など今からするとそんなにひどい罪ではなかったようで、女性や子供達もいたそうです。ただそういう些細な罪を犯す人達は必ずと言っていいほど再犯を犯すので外界から隔絶した脱出もほぼ不可能なこのポートアーサーは再犯者を送る囚人施設としては最適な場所でした。囚人施設(と言っても遺跡ですが)と聞くとちょっとドキッとしますよね。中に入るとまずすごく広い部屋に2千個以上ある引き出しがあります。何故そんな沢山引き出しがあるのかと言うと1840年頃には2000人以上の囚人がそこポートアーサー囚人施設にいたからです。そこからカードを1枚引きます。そのカードは実際にここにいた人の名前が書かれていて何故このポートアーサー送りになったのかも書かれている運命のカードです。COOが引いたのはJames Lynchさんで当時9歳、労働者、イギリスのロンドン生まれ。1843年9月に囚人となる。罪状はおもちゃ3箱の窃盗。刑期:7年の移送。ここポートアーサーに到着して1年後にポイントピュアに送られる。1857年ノーフォーク島からホバートに戻り暴行と強盗の罪で起訴されたのち、別獄の刑務所へ送られる。ジェームスは79歳で亡くなるまで酒浸りで法廷を出たり入ったりする生活をしていた。彼は、ほうきと洗濯ばさみの職人でペグ職人のジミーとして知られていた。COOはジミーになったつもりで史跡内に入り、別獄の見学もしました。ポートアーサーの歴史で後のほうには罪を犯した人だけではなく慢心的な心身障害を持った人達も収容されるようになったそうです。そういう独房もありました。また、ポートアーサーは単なる囚人施設ではなく様々は物資を生産する産業(船、木材、衣服、レンガ、家具など)や食糧を生産するための農場もありました。1877年に閉鎖されるまでの間に計12,000人の囚人達がここで刑に服したそうです。少しづつ廃墟と化していき閉鎖後は山火事などで消失しましたが、ポートアーサーの施設は1988年には観光施設として生まれ変わり、看守が住んでいたところはホテルに改造され、観光客の為に港も整備されました。そして1970年からは州政府の公園局がポートアーサー歴史史跡管理局として管理をしています。本当にとてもきれいに整備されていて史跡の保存状態も素晴らしかったです。そんなポート―アーサーで1996年に大量殺りくがありました。COOもニュースで見ました。犯人は終身刑で刑務所に入り、その間に自殺未遂も起こしたが、まだ服役中だそうです。動機は未だにわかっていないのです。

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